「おい」
僕の後輩が実際に体験した話。
山が好きで、よくひとりでキャンプに行くようなやつなんだけど、その日もテントと寝袋と最低限の荷物だけ持って山に入ったそうだ。
キャンプと言っても整備されてるキャンプ場なんかじゃなくて、獣道も無いような本当の山の中に寝泊まりするようなやつ。
そんな彼いわく、山で怖いのは一番が野生動物で、二番目が他の人間らしい。
クマやイノシシが怖いのは言わずもがなだけど、そんな深い山の中で出会う人間なんて基本まともな目的で来てないってことだ。
お前はどうなんだって感じだが、死体を埋めてる現場なんかにばったり出くわしたらと思うと背筋が凍る。
そんなわけで、キャンプをするときはいつもテントの周りに簡単な「鳴子」みたいなものを二重に張り巡らせてる。
寝てても何かが近づいてくれば「鳴子」が鳴って、近寄られる前に気が付ける。
それに加えて焚火を絶やさないようにしておけば、少なくとも動物は近づいてこなかった。
今回も「鳴子」と焚火の準備をしっかりして、24時ごろ寝袋に入った。
夜の山は独特な緊張感があって、いつもあまり深くは眠れない。
その夜も熟睡はしていなかった。
寝袋に入ってからちょうど2時間ぐらい経ったころだと思う。
うとうととしていると、急にテントの外から
「おい」
と呼ぶ声が聞こえた。
びっくりして目が覚めた。
一瞬、夢でも見たのかと思ったけど、耳を澄ましているとやはり聞こえてくる。
男が低い声で断続的に「おい」「おい」と声をかけてきているみたいだった。
なんとなくその声に違和感があるような気がしたけど、よく分からない。
とりあえずこんな時間にこんな山奥にいる人間だし、用心するに越したことはない。
作業用の手斧を握りしめて、息を殺して寝たふりをしてた。
もしテントに押し入ってくるようなら、応戦することも考えてた。
でも相手は動く様子がなく、立ち去りもせずにただ「おい」「おい」と声をかけてくるだけだ。
そのうちに寝ぼけてた頭がだんだんハッキリしてきた。
よく考えてみると、色々とおかしい。
どうして「鳴子」が鳴らなかったんだろう?
こんな真っ暗な山の中、二重に張った「鳴子」を避けられるものだろうか。
仮にうとうとしてて音を聞き逃したんだとしても、他にも不思議なことがある。
声が聞こえてくる方向からして、男はテントの前にいるらしい。
その背後には焚火が燃えている。
だったらテントに男の影がかかって、シルエットくらいは見えるはずだ。
なのに、なにも、見えていない。
ゾッとした。
気が付いた瞬間、背筋が凍った。
今すぐ叫び声をあげてテントの外に飛び出したかった。
いまだに「おい、おい」という声は続いてる。
テントの外には、一体なにがいるんだ?
手斧を握ってガタガタと震えながら、正体を確かめることもできず、かといってそのまま寝ることもできず固まっていた。
気が付くと朝だった。
男の声もいつの間にかしなくなっていた。
完全に明るくなってから恐る恐る外に出てみた。
テントの前には足跡や、誰かがいたような跡はない。
気持ちを落ち着かせようとあたりを歩き回っていると、小さな沼を見つけた。
古びて錆びきり字も読めない看板だけが立っていた。
家に帰ってからその沼について調べてみると、昔は身投げする人が後を絶たなかったそうだ。
その後輩はいまだによくキャンプに行っている。
(了)
作者:あんどおひふみ